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釈阿理のひとり言

『死と生』は命の陰陽?(釈阿理が余命宣告を受けたとき)

2023年06月03日

六月になりました。今月は21日に夏至を迎えます。大自然と宇宙の循環理論から言うと、冬至から夏至までが陽遁、そして夏至から次の冬至までが隠遁ということになります。人の一生も同じ誕生から成長して成熟して、壮年期までが陽遁。そして熟年から死を迎えるまでが隠遁と考えられます。人の一生では『夏至』と異なりピークのポイントを特定する事は困難ですが、一生の流れの中で見てゆけば、大きな陰陽の循環の中にあることは直ぐに解りますね。

私たち、特に日本の日常生活においては、『死』について『縁起が悪い』『忌事』『不幸』『穢れ』と、徹底的に悪いイメージで捉えます。もちろん大切な人や家族との永久のお別れに直面するわけですから、悲しみであり、良くないことであるのは確かです。しかし一方では『命ある物は必ず滅する』のも事実であって、どんなに嫌っても、遠ざけても、早い遅いの違いはあるものの、誰にでも必ず『死』はやってきます。本当は決して特別なことではないのです。

僧侶としてお見送りのお手伝いをさせて頂く中で、『人は生きたように死んでゆく』という言葉の意味が腑に落ちた瞬間がありました。誰にとっても限りある命。『人生』を考える時、その閉じ方から目を背けないことこそ、豊でリアルな命を生きられるのではないかと思います。

二度も余命宣告を受けたにもかかわらず、未だに『世に憚っている?』釈阿理と一緒に考えてみましょう。

 
【最初の余命宣告】
釈阿理が最初に余命宣告を受けたのは大学在学中でした。免疫性の血液の病で『急性症状が出れば余命は3ヶ月』と宣告されました。自身の免疫システムが不調を来たし、自らの血液成分を攻撃して壊してしまうと言う、当時はまだ良く解らない難病でした。当然治療法もありません。出血傾向が強く、拍手をしても指の血管が切れて内出血してしまう状態。当然生活にも制限があり、病名、症状、主治医の連絡先等が書かれたカードを常に首から下げていました。


【宣告を受けた時に何を考えたか?】 
『まぁ死ぬのは仕方無いとして、病状が酷くなって苦しむのは嫌だな、怖いな』と思いました。『どうせ死ぬのならそこの所はすっ飛ばしたい』と考えたのです。自分でも驚くくらい冷静でした。
ずっと病院通いで生活にも制限があり、苦痛があり、出血の不安に怯え・・・という生活ですから、当時の釈阿理はメチャメチャ根暗な子でした。宣告を受けて病への恐怖から、更にネクラに拍車が掛かった感じで鬱々とした日々を過ごしていました。


【釈阿理を変えた新聞の三面記事】
そんなある日のこと。釈阿理の生き方を180度変えるような記事に出会いました。『ビルの屋上から女性が飛び降り自殺。ちょうど下を歩いていたカップルの女性を直撃して、当たられた女性は死亡。飛び降りた人は奇跡的に重症。』という内容でした。


【釈阿理の頭の中で起きた大転換】
自身の意識の中に、医師から宣告された『死』が常にある状態でこの記事を読んだ釈阿理は、ふと思ったのです。
『明日死ぬかも知れないことにおいて全ての命は平等なんだ!』『いつまで生きられるか解らないのは私だけじゃ無い!』『誰もが明日関東大震災が来て命を落とすかも知れないリスクに晒されている』(当時は関東大震災の再来リスクが盛んに言われていました)→『それに気付いた私ってラッキー!』


【それから釈阿理の生き方は方向転換】
『どうせ死ぬかも知れないのなら、動けるうちにやってみたいことはやり、食べたいものは食べ、行ってみたいところは行き、明日死んでも思い残すことの無いような生き方をしよう!と考えました。まさに開き直りの境地です。病を抱えていたので、症状が進めば命はあっても自由にならないであろうことは容易に想像出来たのです。
ネクラでいじめられっ子だった釈阿理は、突然積極的で明るい子に変身しました。今振り返って分析すると、それは他人の価値観ではなく、自分の価値観で行動するようになったということだと思います(当時はそんなことは知らんけど)。事情を知らない親戚からは『何をそんなに生き急いでいるのか?』と言われましたが、『ボーッとしていたら人生が終わってしまうかも知れない』私には『今が大切』だったんです。


【今を生きるということ】
還暦を過ぎた現在、同世代の友人達も体力の低下を感じ、また親御さんの介護等を経験して、自身の命にも終わりが有ることを意識する機会が増えて来たようです。すると不思議なことに『もう老い先短いのだから、人生楽しまなくちゃね』『一日一日が大事よね~』なんて話が出て来ます。釈阿理は40年くらい前にそこに気付いていたんですけれどね(笑)。

釈阿理の師匠は90歳を過ぎて『人生なんてアッという間よ。興味があるなら今おやりなさい。先延ばししている時間なんて無いんだから』と仰いました。今思えば、恐らくは人生の終着点を意識された上での振り返りだったのかもしれません。

陰陽がセットで存在するように、いのちも生と死がセットで存在しています。ありのままの『死』を自然なこととして受けとめられた時、『ありのままの今を生きる』ことが出来るようになるのではないかと思います。
皆様も辛い時、苦しい時、思い通りにならない時etc. お悩みの時には『もし明日死ぬとしたら、今自分はどうするかな?』と考えて見てください。視点が変わって堂々巡りから抜け出せるかも知れませんよ!

釈阿理の病からの復活や二度目の余命宣告などについては、また日を改めて少しずつお伝えしてゆきますね。
皆様にとって素敵な水無月でありますように!

釈阿理 合掌



 


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