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釈阿理のひとり言

生きることは食べること?(その1)

2022年10月06日

10月に入り高い山からは紅葉の便りが届くようになりました。色々あった今年もあと3ヶ月なんですね。
さて今日は『生きることは食べること』というお話をしたいと思います。

私はお肉をあまり頂きません。そう言うと僧籍にあることから『宗教上の問題ですか?』とよく訊ねられます。しかし残念ながらそんな高尚な理由ではなくて、ただの好き嫌いなんです(笑)。


ではなぜ『宗教者はお肉を食べない』と人々は考えるのでしょうか? 仏教徒には『不殺生』という戒があるからですね。そこで『精進料理』という殺生をせずに生きるための食を賄う方法を考え出しました。精進料理は正式にはお出汁も含め、動物性の物は一切御法度です。
しかし植物だって生きもの。根こそぎ手折って食べてしまっても、これは殺生にならないのでしょうか?

 
釈阿理は単なる好き嫌いで、ベジタリアンに近い食生活です。しかしだからといって殺生をしていないとは思っていません
釈阿理は植物が大好きで、欅、柿、栗、ミカン、イチジクなどの木や、色々なハーブと一緒に暮らしています。彼等もよく観察していると、春に芽吹き、成長し、初夏に花を咲かせて交配し、秋には実を付けて世代交代をする。そんなサイクルを繰り返し、脳は無くても色々と生きるための戦略を考えて進化し生き続けています。どうみても彼等もれっきとした生きものです。

自分で育てたラディッシュを引き抜いて食べる、自分で育てたトマトを収穫して食べる、せっかく顔を出したミョウガの蕾を手折って食べるetc.
可愛がって育てた植物たちなので、収穫するときにやはり『ゴメンね。ありがとう!』という気持ちになります。イチジクは実を取れば、切り口から白い樹液が流れます。やっぱり痛そうですね。




私たち人間が生きてゆくためには、何かを食べなければなりません。それが植物であっても動物であっても、他の生きものの命を分けて頂いていることに変わりは無いと言うのが現実です。だからこそ『食べることは生きること!』そして『私』の命は他のたくさんの命によって支えられている事を、決して忘れてはいけないと思うのです。

『私』の命は決して自分だけの物ではありません。『私』とは私の中に生きるたくさんの命たちの代表選手としての存在なんですね。だからこそ、今は私の身体の一部となって、物を言うこともない命たちをがっかりさせないように、今日の命を一生懸命生きなければと思います。

もし自分自身が食べられてしまう立場だったとしたら、どんな風に感じるでしょうか? 
『そんな馬鹿なこと考えるヤツいるか?』と思われるかも知れませんが、騙されたと思ってちょっと考えて見てください。
釈阿理が食べられちゃう方だったら、ちゃんと残さず綺麗に食べて欲しいですし、どうせ食べられるならワルじゃなくて善良な捕食者に食べられたいですね。
食べられると言うことは、捕食者の命の一部になると言うことですものね。ワルと一緒になって悪事を働くのは勘弁です。

視点が変わると、『生きることは食べること!』を実感できて食と自分自身に対する感謝を感じる事が出来ますよ。
これが何だかじんわりと不思議な幸せ感を連れてきてくれるのです。

秋の夜長、キャンドルの光でも見ながら釈阿理の不思議な思考の世界を体験してみてください。
『生きることは食べること!』 
次第に気温も下がってきますので、暖かくしてお過ごしくださいね。

皆様のご健勝をお祈りしております。
釈阿理 合掌
 


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