釈阿理のひとり言
カラダって魂の乗り物なんです!
カラダは魂の乗り物なんだ! 釈阿理はある時そんな啓示を受けました。これにはちょっとしたストーリーがあって、ナルホド~!と納得。一気に腑に落ちました。
このことを受け入れられると、アンチエイジングの呪いから解放されますし、釈阿理がいつもお話している『命=時間』ということもスッとご理解頂けると思います。今日は少し難しいお話ですが、真面目に楽しく語ってみたいと思います。ちょっと長目ですが是非最後までお読みくださいね。

魂とはエネルギー体です。だから目に見えませんし、手で触ることも出来ませんね。
一方カラダ=肉体は物理的な存在です。当たり前ですが、手で触れることも目で見ることも出来るわけです。
しかし物理的な存在には一つ大きな欠点があります。それは経年劣化すると言うこと。
これは人のカラダだけではなく、自動車も、スーパーで買ってきた野菜も、ダイニングテーブルも、建物も同じです。全ての物理的な存在は経年劣化を免れることは出来ません。私たちのカラダも成長が頂点に達すればどんなにアンチエイジングに精を出しても経年劣化=老化を止めることは出来ませんね。
ではカラダに乗っている魂は経年劣化するのでしょうか? ご自身の感覚を考えてみてください。20歳の頃の『私』の自我意識と、40歳になった『私』の自我意識は異なりますか?自我意識とは『私が私である感覚』のことです。
年配の方はよく『気持ちだけは若いんだけどね、最近カラダが付いて来ないのよ』なんて仰います。実際釈阿理も年齢を重ね、鏡を見てびっくりすることがあります。『あれ?私こんなオバサン(お婆ちゃん?)だったっけ?』と(笑)。
鏡さえ見なければ、釈阿理の自我意識は30歳でも60歳でもさして変わりは無いのです。しかしカラダは物理的な存在ですからしっかり経年劣化!鏡を見れば一目瞭然でギョッとすることになります。『こんな筈では・・・。』と私の自我意識は焦っているのです。このギャップこそが老いの苦しみではないか?と釈阿理は考えています。
車はポンコツになったら新しい車に乗り換えれば良いのですが、カラダは神様から1個だけしかもらえません。カラダを取り替えるためには、一度神様のところへ行って新たなカラダに取り替えてもらう必要があるわけです。これが輪廻転生?
こうして考えてみると、魂はカラダが無くなっても、エネルギー体として存在し続けると思えてきます。依り代を失った魂は、過去の記憶の中に生き続けます。『故人を思い出してあげる事が供養になる』と昔から言われるのも何となく頷けますね。
と言う訳で、『私』と言う魂が乗っているカラダはいわば『マイカー』です。長く乗っているとポンコツになるのは仕方無いですが、長持ちさせるためにはちゃんとメンテナンスしないといけませんね。そして『命』というドライブが終わったら、次の新しい車をおねだりしに神様のところへ。『今度は白いスポーツカーが良いなぁ!』ってね(笑)。
釈阿理 合掌